副住職日記
2014-07-01 00:33:35
いつかは訪れる別れの日・・・・
6月4日、祖父であり前住職の恵晃上人が遷化されました。世寿90歳。
1年ほど前から入退院を繰り返していましたが、家族が見守る中、遷化されました。
両親が早くなくなったため、22歳でお寺を継ぎ、兄妹8人育てながら
檀信徒教化はもちろん、福祉施設の創設など、地域貢献も行ってきました。
私にとっては祖父であり、師匠であり、大きな目標でした。
通夜・葬儀の後も、バタバタしながら落ち着かず、このブログも書かないまま・・
今日、四七日忌を迎え、ようやくブログに書いた次第です。
通夜・葬儀当日は、多くの方にお見送りを受け、祖父の人徳を感じるとともに、
本当にありがたかったです。
その後も回向参りに行く毎に、祖父の思い出話やエピソードをお聞きする度、
私たち家族が知らない一面を知ることができ、皆さんから本当に頼りにされ、
尊敬されていたことに、改めて偉大さを感じました。
元気なうちにもっと聞いておけばよかった・・・・
「陰信顕徳」
形あるものはいつかはなくなるもの。私たちが亡くなった後、残るものとは・・・
それは、自分たちの言動によるものです。
普段は表に出なくても、また出さなくても、後世に残っていくものは形に見えないものだと思います。
毎日祖父の遺影を見ながら、自らの反省とともに、
少しでも近づけるように精進したいと思います。
※葬儀・通夜の様子を少しだけUPします。
1年ほど前から入退院を繰り返していましたが、家族が見守る中、遷化されました。
両親が早くなくなったため、22歳でお寺を継ぎ、兄妹8人育てながら
檀信徒教化はもちろん、福祉施設の創設など、地域貢献も行ってきました。
私にとっては祖父であり、師匠であり、大きな目標でした。
通夜・葬儀の後も、バタバタしながら落ち着かず、このブログも書かないまま・・
今日、四七日忌を迎え、ようやくブログに書いた次第です。
通夜・葬儀当日は、多くの方にお見送りを受け、祖父の人徳を感じるとともに、
本当にありがたかったです。
その後も回向参りに行く毎に、祖父の思い出話やエピソードをお聞きする度、
私たち家族が知らない一面を知ることができ、皆さんから本当に頼りにされ、
尊敬されていたことに、改めて偉大さを感じました。
元気なうちにもっと聞いておけばよかった・・・・
「陰信顕徳」
形あるものはいつかはなくなるもの。私たちが亡くなった後、残るものとは・・・
それは、自分たちの言動によるものです。
普段は表に出なくても、また出さなくても、後世に残っていくものは形に見えないものだと思います。
毎日祖父の遺影を見ながら、自らの反省とともに、
少しでも近づけるように精進したいと思います。
※葬儀・通夜の様子を少しだけUPします。
2014-05-12 22:59:00
新たな始まり ~感謝の気持ち~
平成11年に大荒行堂に入行して以来、お世話になっている先輩上人の御自坊の
落慶法要にお手伝いに行ってきました。
本清寺という、諫早市内の寺院ですが、こちらの住職になられて10年。
今回本堂の改築、庫裏の新築をされたわけですが、
真新しい中にも、こまやかな心遣いをされていることがわかります。
バリアフリーはもちろん、車いす用のリフト、エレベーターなどの配慮とともに、
スギゴケがきれいな中庭には、以前の鬼瓦が飾ってあり、
何もかも新しくするのではなく、先人の「想い」を残す先輩ならではの優しさがありました。
なかでも、今回法要に使用された衣(七条)は先輩のお師匠様が召されていたもの。
師匠の想いも一緒に、感謝の気持ちを表されていました。
晴天にも恵まれ、多くの檀信徒の参詣や稚児行列を拝見して、
先輩の人柄、普段の言動が、檀信徒を惹きつけるんだろうなぁ、と刺激を受けました。
法要後の祝賀会で聞いた話ですが、ちょうどこの日が住職に推挙された節目の日だったそうです。
「節から芽がでる」
10年を節目として、また新たな芽がきっと大きく育つのだろうと、つくつく感じた法要であり、
色んな意味で考えさせられた「母の日」でした。
落慶法要にお手伝いに行ってきました。
本清寺という、諫早市内の寺院ですが、こちらの住職になられて10年。
今回本堂の改築、庫裏の新築をされたわけですが、
真新しい中にも、こまやかな心遣いをされていることがわかります。
バリアフリーはもちろん、車いす用のリフト、エレベーターなどの配慮とともに、
スギゴケがきれいな中庭には、以前の鬼瓦が飾ってあり、
何もかも新しくするのではなく、先人の「想い」を残す先輩ならではの優しさがありました。
なかでも、今回法要に使用された衣(七条)は先輩のお師匠様が召されていたもの。
師匠の想いも一緒に、感謝の気持ちを表されていました。
晴天にも恵まれ、多くの檀信徒の参詣や稚児行列を拝見して、
先輩の人柄、普段の言動が、檀信徒を惹きつけるんだろうなぁ、と刺激を受けました。
法要後の祝賀会で聞いた話ですが、ちょうどこの日が住職に推挙された節目の日だったそうです。
「節から芽がでる」
10年を節目として、また新たな芽がきっと大きく育つのだろうと、つくつく感じた法要であり、
色んな意味で考えさせられた「母の日」でした。
2014-04-22 22:54:00
めでたく卒業!
4月をもって、長崎県日蓮宗青年会を無事卒業しました(笑)
大学卒業後、22歳で帰郷し青年会にお世話になって早18年の歳月が流れました。
その間、県内での研修はもちろん、全国各地へ研修に行かせていただき、
多くの仲間ができ、縁を結ばせて頂きました。
過ぎてしまえばあっという間ですが、これまでやってきたことが
これからの糧になるに違いありません。
「異体同心」・・・・心はひとつ。
本当に多くの仲間と出会えてよかったと思います。
最後に記念品を頂きました。
現会長の直筆入り「輪袈裟」
そのうち、写真UPしますね。
大学卒業後、22歳で帰郷し青年会にお世話になって早18年の歳月が流れました。
その間、県内での研修はもちろん、全国各地へ研修に行かせていただき、
多くの仲間ができ、縁を結ばせて頂きました。
過ぎてしまえばあっという間ですが、これまでやってきたことが
これからの糧になるに違いありません。
「異体同心」・・・・心はひとつ。
本当に多くの仲間と出会えてよかったと思います。
最後に記念品を頂きました。
現会長の直筆入り「輪袈裟」
そのうち、写真UPしますね。
2014-04-08 22:33:00
花まつり ~お釈迦様の誕生日~
今日はお釈迦様の誕生日。
本堂に花御堂を準備して、甘茶をかけ御生誕をお祝いします。
檀家さんから供養の生花。南向きに咲くヒマワリがお祝いしています。
「灌仏会」と言いますが、現在では「花まつり」といい、お釈迦様の像(誕生仏)に甘茶をかけてお祝いします。
ルンビニの花園でお生まれになった時、花が咲き乱れ、産湯の代わりに龍が甘い露をお釈迦さまに注がれたといわれ、
それが甘茶をそそぐ由来になっています。
さらに、お生まれになられてすぐに7歩進み、右手人差し指を天に向け、
「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」とおっしゃったといわれています。
人としてこの時代にこの世に生まれてきたことは、尊いことです。1人1人が自分はもちろん、
他人も自分の事のように大事に思う、そして、周りに感謝する心が何よりだと思います。
当山は、住職が育てた「アマチャ」の葉を使用した自家製「甘茶」。無農薬はもちろん、添加物一切ありません(笑)
以前は朝早くから一升瓶やペットボトルを持って、頂きに来られる方もいましたが、
現在は小さな容器に入れて準備しています。
また今月の信行会と共に開催し、お勤めしました。
子供たちも参加してもらいたかったのですが、今日はどこも入学式。
各々、新たなスタートを一日一日大切に、そして周りに感謝しながら
過ごしてもらいたいものです。
本堂に花御堂を準備して、甘茶をかけ御生誕をお祝いします。
檀家さんから供養の生花。南向きに咲くヒマワリがお祝いしています。
「灌仏会」と言いますが、現在では「花まつり」といい、お釈迦様の像(誕生仏)に甘茶をかけてお祝いします。
ルンビニの花園でお生まれになった時、花が咲き乱れ、産湯の代わりに龍が甘い露をお釈迦さまに注がれたといわれ、
それが甘茶をそそぐ由来になっています。
さらに、お生まれになられてすぐに7歩進み、右手人差し指を天に向け、
「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」とおっしゃったといわれています。
人としてこの時代にこの世に生まれてきたことは、尊いことです。1人1人が自分はもちろん、
他人も自分の事のように大事に思う、そして、周りに感謝する心が何よりだと思います。
当山は、住職が育てた「アマチャ」の葉を使用した自家製「甘茶」。無農薬はもちろん、添加物一切ありません(笑)
以前は朝早くから一升瓶やペットボトルを持って、頂きに来られる方もいましたが、
現在は小さな容器に入れて準備しています。
また今月の信行会と共に開催し、お勤めしました。
子供たちも参加してもらいたかったのですが、今日はどこも入学式。
各々、新たなスタートを一日一日大切に、そして周りに感謝しながら
過ごしてもらいたいものです。
2014-04-02 14:29:00
天災は忘れた頃に・・・・・・
ブログでも紹介しましたが、3年前より大寒から1週間「寒行」として
島原半島1周行脚を行っています。
これは、東日本大震災を機に、約220年前に島原半島で起きた災害による殉難者慰霊と、
交通安全祈願を目的に行っているものです。
その災害とは、西暦1792年5月21日(寛政4年4月1日)に起こった眉山崩壊と津波による自然災害です。
「島原大変 肥後迷惑」という言葉がありますが、
島原半島と対岸の熊本・天草地方で合わせて1万5000人の方が犠牲になられたと記録があります。
詳しくは→島原大変(ウィキペディア)
手前が崩壊した眉山。地震によって山頂より150mの高さにわたり崩れ、
その土砂が海へなだれ込み、津波になったとか・・・・
慰霊はもちろん、後世に伝えるため、島原半島・天草地方の各地に慰霊塔、供養塔が多数建立されています。
その中で、島原藩が建立した供養塔が半島内に7つあります。文字が全て同じなのが特徴です。
行脚の際は、供養塔の前でお勤めしてご回向してきました。
ただ、どうしても最後の1箇所がわからなかったのですが、
やっと探すことができ、昨日お参りしてきました。
奇しくも4月1日。島原大変は旧暦ですが、「憶持不忘」つねに忘れないようにしたいものです。
また記録によると、津波は地形的に布津町が一番高かったらしく、57Mの高さまで溯上したとあります。
当山は、海抜58M。すぐそこまで来たいたのかもしれません。
妙法寺は明治18年建立。開山上人は、きっといろんなことを考えられて、この場所に
建立されたのでしょう。
開山上人の命日は3月31日。いろんなことが重なって、考えさせられる年度末・年度初めとなりました。
今朝のニュースを見ると、チリで地震と津波が起きたとのこと。
普段からの備え、危機意識も重要ですね。
以下、半島7か所の慰霊碑をご紹介。
(雲仙市国見町 旧・多比良村)
(島原市三会町 旧・三会村)
(島原市田町)
(島原市南崩山町 旧・安徳村) (南島原市布津町 旧・布津村)
(南島原市西有家町 旧・隅田村)
(南島原市南有馬町 旧・南有馬村)
(供養塔説明文)
先人たちが、供養のために建立したのはもちろんのこと
後世に伝えるためでもあります。
時間が経つにつれ、世代が変わるにつれ失われていくもの・・・
古来、日本人が大切にしてきたもの・・・
伝えていかなければならない使命がありますね。
島原半島1周行脚を行っています。
これは、東日本大震災を機に、約220年前に島原半島で起きた災害による殉難者慰霊と、
交通安全祈願を目的に行っているものです。
その災害とは、西暦1792年5月21日(寛政4年4月1日)に起こった眉山崩壊と津波による自然災害です。
「島原大変 肥後迷惑」という言葉がありますが、
島原半島と対岸の熊本・天草地方で合わせて1万5000人の方が犠牲になられたと記録があります。
詳しくは→島原大変(ウィキペディア)
手前が崩壊した眉山。地震によって山頂より150mの高さにわたり崩れ、
その土砂が海へなだれ込み、津波になったとか・・・・
慰霊はもちろん、後世に伝えるため、島原半島・天草地方の各地に慰霊塔、供養塔が多数建立されています。
その中で、島原藩が建立した供養塔が半島内に7つあります。文字が全て同じなのが特徴です。
行脚の際は、供養塔の前でお勤めしてご回向してきました。
ただ、どうしても最後の1箇所がわからなかったのですが、
やっと探すことができ、昨日お参りしてきました。
奇しくも4月1日。島原大変は旧暦ですが、「憶持不忘」つねに忘れないようにしたいものです。
また記録によると、津波は地形的に布津町が一番高かったらしく、57Mの高さまで溯上したとあります。
当山は、海抜58M。すぐそこまで来たいたのかもしれません。
妙法寺は明治18年建立。開山上人は、きっといろんなことを考えられて、この場所に
建立されたのでしょう。
開山上人の命日は3月31日。いろんなことが重なって、考えさせられる年度末・年度初めとなりました。
今朝のニュースを見ると、チリで地震と津波が起きたとのこと。
普段からの備え、危機意識も重要ですね。
以下、半島7か所の慰霊碑をご紹介。
(雲仙市国見町 旧・多比良村)
(島原市三会町 旧・三会村)
(島原市田町)
(島原市南崩山町 旧・安徳村) (南島原市布津町 旧・布津村)
(南島原市西有家町 旧・隅田村)
(南島原市南有馬町 旧・南有馬村)
(供養塔説明文)
先人たちが、供養のために建立したのはもちろんのこと
後世に伝えるためでもあります。
時間が経つにつれ、世代が変わるにつれ失われていくもの・・・
古来、日本人が大切にしてきたもの・・・
伝えていかなければならない使命がありますね。