副住職日記
信行会 開催
毎月の信行会を開催しました。
GW期間中にもかかわらず、
熱心にお参りいただきました。
お経練習、和讃、法話を行った後、
今月は茶話会で、お茶(抹茶)の接待を行いました。
普段は中々頂く機会がないのですが、
茶道を行っている檀家さんからの提案があり、
美味しいお茶とお菓子で一服。
忙しい時間の中に、ホッとするひと時でした。
地域の歴史 ~供養塔参り~
今から約220年前の寛政4年(1792年)4月1日、
雲仙岳噴火に伴う大きな地震で、島原市・眉山が崩壊し
大量の土砂が有明海に流れ込み、津波が発生しました。
「島原大変肥後迷惑」と言われますが、有明海対岸の熊本と合わせ、
約15000人の死者が出たといわれる災害です。
その後、島原藩によって島原半島に7基の供養塔が建立されましたが
毎年1月に地元若手僧侶とともに、寒行を兼ねて慰霊行脚を行っていました。
今年は、それぞれ予定が合わなかったので、命日である4月1日に
供養塔参りを行いました。
多比良 三会
田町
安中 須川
南有馬
普賢会会員が各地の供養をまわり、最後に布津町内にある供養塔前に集合して
皆でお勤めしました。
この地は津波が57Mの高さまで溯上したといわれる場所です。
ちなみに、うち(妙法寺)は標高58M。近隣の標高57Mを線で表したのが下の図です。
各地の供養塔も、現在でも4月1日に、近隣の方々で慰霊祭を行ったり、
普段からお花のお供えをされているようです。
220年前に思いをはせ、後世のために残した供養塔。
存在自体を知らない方も多いので、
少しでもその想いを伝えていきたいと思います。
足跡・・・・何を残すか。
島原市・護国寺様の三十番神修復落慶法要が行われ、私も式衆として参加させていただきました。
130年ぶりの修復事業だったそうですが、御尊像、厨子は見事に修復され、
番神堂に入ると、そのご威光から30体の番神様がこちらに迫ってくるかのようなオーラがあります。
またお天道様、満開の桜が番神様の蘇りを祝福しているようでした。
境内には檀信徒による出店もあり、堂内・境内はたくさんの人でごった返していました。
法要で寺院代表のお上人様から、「生きている間に何を残すのか?その足跡が大事である」と祝辞の中で
おっしゃられました。
護国寺御住職をはじめ、檀信徒や多くの方の力添えによって成し遂げられた今回の事業。
そこには、後世に伝えるべく、今何をすべきかを考えて行動された結果であり、
そこに賛同された皆さんの想いの結晶だと思います。
未来の果を知りたければ、現在の因をみよ。
どんな足跡を残すか、その歩み方を考えさせられました。
無双太鼓(布津)奉納演奏もあり、勇壮な太鼓の響きに、番神様も喜んでいらっしゃると思います。
5年に及ぶ事業の無事円成を皆さんでお祝いしました。
彼岸法要を行いました
全国的に寒くなった春分の日、当山でも彼岸法要を行いました。
冷たい雨が降るあいにくの天気でしたが、
足元悪い中、たくさんのお参りを頂きました。
有難いことです。
彼岸法要・施餓鬼法要の中で和讃奉納、法話を行いました。
法話では約220年前に起きた「島原大変」の話から、
島原藩内に当時建てられた供養塔の存在、今でも命日である4月1日に
地域で供養祭が行われていること、
若手僧侶で行脚しながら供養を行っていたことなどを紹介し、
伝えることの大切さと、今日まで先師が伝えてきた仏教、法華経、お題目と
縁を結んだ尊さをお話ししました。
年配の方でも、供養塔の存在を知らない方が多く、
紹介したことで、再認識していただければと思います。
彼岸は日願とも言っていたそうです。
お日様=太陽に作物の成長と実りを願う春季彼岸でもあります。
作物の出来も天候次第。
雨ももちろん大事ですが、改めてお天道様の偉大さを感じた彼岸法要でした。
三十番神 開眼法要
島原市・護国寺様の三十番神尊像が
無事修復をおえ、旧正月の今日から1か月間、
毎日1体ずつ開眼法要が行われます。
初日の今日は、県内寺院の団参も含め
100名を超す参詣者で堂内は一杯でした。
昨日収穫した「桜島大根」は、こちらに奉納させていただきました。
本当は1月の三十番神大祭に間に合うように植えたのですが、
天候不順もあり、ちょうど半年経って、開眼法要の初日に
お供えできたのは、かえって良かったかもしれません。
また、2月16日は日蓮聖人の御降誕日。
旧正月といい、新たな歴史の1ページに
お参りできたことは、本当にありがたいことです。
開眼法要は1か月間、毎日10時~ 護国寺様で行われます。