副住職日記
11時2分のサイレン
8月9日。この日は長崎に原子爆弾が投下された日。県内の小中学校では、登校日となり、各地で平和集会が開催されます。
先日慰霊行脚を行いましたが、本当はこの9日に行うのが望ましいのですが、この日は各寺院にて
慰霊のお勤めを行います。
11時2分。投下の時刻に合わせ、黙祷のサイレンが鳴ります。
体験された方が高齢となり、いかに後世へ伝えていくかが、ニュースにもなっていました。
実際に体験したことがない私たちが、さらに次世代へ伝えていくには・・・・・
より真剣に話を聞き、この目で現地を見て、その想いを話さなければなりません。
3年前、全国青年僧の呼びかけで、サイパン島への慰霊法要へ参加しました。
以下の文は、自分が参加した後に記した感想文、ならびに写真を掲載します。
サイパン島のすぐそばにテニアン島という小さな島があります。テニアン島は、太平洋戦争中の激戦区であったことはもとより、人類史上初であり唯一の原子力爆弾を搭載した2機のB-29爆撃機が広島・長崎へ向け飛び立った場所でもあります。
サイパン島からセスナ機で5分。現地へ到着した一行を出迎えたのは、慰霊碑左手の崖一面に広がる無数の艦砲射撃の跡でした。それは対面に広がる青く美しい海との非現実的なコントラストとなって私たちの眼前に広がり、その光景を目の当たりにする中、各々が持ち寄った供物をお供えし、慰霊法要を行いました。
再びバスに搭乗しハゴイ飛行場跡のある北端への移動を開始致します。
北端まで僅か30分足らずのその道程こそ、60数年前に原子力爆弾を積載したトラックが「エノラゲイ」そして「ボックスカー」と名付けられた2機のB-29爆撃機の待つ飛行場へ向かった道なのです。 やがて一行を乗せたバスは草に覆われた古い滑走路を走り抜け、僅かに残された道を進むとコンクリートで舗装された広場へ到着致しました。
そこには風化を防ぐガラスに覆われた四角い穴が2つひっそりと残されています。広島へ向けて飛び立った「エノラゲイ」へ原爆を搭載した第1ピット、そして長崎へ向かった「ボックスカー」への搭載を行った第2ピット跡です。3~4丈程しかないその穴は、今も尚、見る者に対し得も言われぬ感情を起こさせる、独特の空気を纏って存在し続けています。
この日私たちが目の当たりにした戦跡は、今なお人間の犯した暗く悲しい歴史を伝え続けています。鬱蒼と生い茂った密林の奥でコンクリートに囲まれた小さなピット跡に立った時、まさに人類の背負った苦しみの原点がそこに存在することを痛感させられました。
広島・長崎へ飛び立った、滑走路跡
そして、それは同時に今を生きる私たちにとっての再出発の場所としなければならない、との強い祈り、願いを胸に抱かせる力をもった場所でもあります。
広島・長崎両日青会の皆様は勿論のこと、全国よりお集まりいただいた誰もがその思いを胸に抱き、それぞれの生きる場所でご活躍いただければと切に願っております。
農場でノニを栽培しているガンさんが島を案内してくれた。見るもの聞くものはじめまして!ばかり。“捕虜になるのは日本人の恥”と洗脳されていた日本人は200メートル下の海に身を投げたという場所に立ってみて・・・真理を知らないことはツミだ・・と思った。そして彼らの犠牲の上に今の日本が、我々があるんだと 心から感謝と祈りをささげた。
いきなりジャングルの中に入っていった。“日の出神社”の跡だという。鳥居が残っていた。
私は鳥居よりも何よりも その鳥居にくっついて立っていたパパイヤの木が気になった。車は細い道をどんどん行って、広島・長崎に落とされた原爆は、ここから運んだ という場所に行った。数メートル掘ってつくった長方形のコンクリートの穴?(何と表現するのでしょうか)があって、その穴を囲んで地上2メートルくらいのガラスフードのようなものがつくられてあって中を覗くことができた。ガンさんが説明してくれた。“これは天皇ヒロヒトへのファーストメッセージ(広島に落とした爆弾)そしてこれがセカンドキッス(長崎に落とした爆弾)。
気がついたら祈っていた 最高の表現だった 世界人類が平和でありますように・・・
こういった事実、場所があることもそれまで知らなかったのです。
いまだに残る戦争の傷跡。いつまでも忘れないためにも、心に留めておきたい。