副住職日記

2012-06-03 20:26:00

21年の歳月

 6月3日、この日は島原半島住む人たちに忘れられない日。
今から21年前、普賢岳噴火に伴う大火砕流が発生し、地元消防団やマスコミ関係者など
40数名の方が犠牲になられた。

当時、私は高校生。高総体のまっただ中で、学校も午前中で終了し、たまたま帰宅していた。
午後4時8分、ゴロゴロと地鳴りがしたかと思うと、空一面を真っ黒い雲が多い、
辺りは真っ暗になり、焦げ臭いにおいが充満した。
火砕流なんて、当時誰も知らなかった、夜になると。家からは真っ赤に流れる溶岩が見えた。
珍しいこともあって火砕流が起きるたび、見物のため足を止め、車を止め、
マスコミも取材合戦が盛んだった。
そんな折である。大変なことが起きた!と直感した。テレビをつけると、怪我をした人が次々と運ばれる光景が目に入り、市内の寺院は遺体安置所となった。
その後、高校へは船で通学し、噴石に備え、毎日ヘルメット持参の登校となった。

あれから21年。多くの犠牲者が出た「定点」と呼ばれる、当時マスコミ関係者の撮影ポイントへ
行った。そこはテントが張ってあり、関係者を含め数十人の方がお参りされていた。
正直、もっと閑散としているだろうと思ったが、
いくら年月は経っても、想いがある限り、風化することはない。

周辺を見下ろす高台にて、一読、御回向させていただいた。
多くの犠牲と共に気付かされたこと、得たことを後世に伝えることを誓って。

「定点」付近